YELL NIPPON

3.11 それぞれの時 そして明日へ

沿岸応援プロジェクト

加工品部門を立ち上げ、新商品を今、これから世に送り出そうとしていた時の震災。このままでは終われません!

有限会社まるき水産 代表取締役 佐々木千鶴子さん 調理担当 今澤賢市さん(山田町)

プロフィール:三陸産ホタテ、カキなどの海産物の卸に加え、これらの冷凍・冷蔵を含む一次加工と調理加工品の開発に力を注ぐ有限会社まるき水産

3月11日14時46分

経験もしたことのない大きな揺れだった。
会社には、社長の佐々木千鶴子さんと調理担当の今澤賢市さんがいつものように仕事をしていた。
建物が、防波堤の海側にあるため、内側に車などを移動した。これも地震のあった時のいつもの作業。
その時は、これほどの大きな津波など思いもしなかった……。

「前々日の9日にも大きな地震があったが、たいした津波は来なかったので、
そんな気持ちの油断はあった」……とお二人は振り返る。

それでも、今回はかなりの揺れだったため念のため、それぞれの自宅に帰って、しばらく様子を見て戻ってくることにして会社を出た。

「すぐに戻って仕事ができると思っていてポケットにポンと鍵を入れて車に乗り込んだの……」

社長 佐々木千鶴子さん

佐々木さんの自宅は山田町役場のすぐ近く。
チリの大津波の時でさえ、自宅付近まで津波が来ることがなかったので、とりあえずという気持ちで軽く考えていたそう。

しかし、町役場の駐車場にみんなで集まり防波堤の方を眺めていると、街の中心部から水柱が上がったのが見えた。

『「何?何?」と始めはわけがわからなかったが、屋上にいた人たちが口々に「逃げろ!!」と叫んでいた。それを聞いてみんなで役場の上に上って外を見たら……瓦礫だらけになっていた。』

見る見るうちに何度も津波が防波堤を超えて入ってきて何もかもが流されていった。

車が流され、流されている車のクラクションが鳴り響いていたのが耳に残っている。

津波直後、瓦礫で道が塞がれ、自宅に戻ることができなかったが、それでも「落ち着いたら自宅に帰って片づけしなきゃ」くらいの思いでいた。

津波の後の大火事

津波も引けた15時半頃から、山田病院の方から火の手が上がり、それをきっかけにしたように至るところで火の手が上がりだした。
流れ出したガソリンに火がつき、プロパンガスに引火した。

それはまるで打ち上げ花火のようにパンパンと爆発を繰り返していた。
一度着いた火は勢いを増し、山田町を包み込んでいった。
その後3日から4日間燃え続けた……。

佐々木さんは、そのまま隣町の豊間根に避難し、ライフラインが途絶え、電話も通じず山田町の様子をしばらくの間つかむことができなかった。
情報が無く、自分たちの状況すらわからない状態が何日も続いた。

今澤賢市さん

町内の大沢の八幡下にある自宅に戻った。 「のんきに構えててさぁ、一応、高台に避難して、戻ってきたらご飯を食べようなんて2階に炊飯器を移動したのさ。まさか、家がなくなるとは……ねぇ」

高台から見た山田の町は、津波に巻きこまれた家がぐるぐる周り、ぶつかり合う……現実に起きていることなのか、夢なのかわからなかったという。

山田のお祭りは暴れ神輿といって、建物に神輿をぶつけたり、ぐるぐる回ったり……
津波によって家が流される様子は、まるで暴れ神輿のようだった。
切羽詰まった状況下、頭の片隅でそんなことを思いながら見ていた。

「おかしな感覚だよね。怖いとかそういう思いはなく「あ~!!」っと口をあけて見つめるだけ。なす術もないといった状況だね。ただただ感情もなくぽかんと口が開いていたよ」
家や車が流され、防波堤を超える波で船が持ち上がり、すとんと落ちる。その様子を見守るしかなかった。

油断

防波堤の上で津波を見ていた人たちが飲み込まれた。
みんなが避難していた中、防波堤の小さな扉をくぐって海にでて行った人もいた。
荷物を取りに戻った人も、役場の近くには来るわけがない。と自宅に残った人もいた。
たくさんの人たちが、津波に流されていく。

その様子を多くの人たちが高台から見ているしかなかった。

震災後から

佐々木さんと今澤さん、お互いに電話をかけたが、つながらない。
つながらないとわかっていても電話をかけ続けた。

今澤さんは、数日後役場に行って、社長の安否を確認。
社長は、避難所を回って今澤さんの無事を確かめ再会できたのが震災から4日後のことだった。
「震災後4日目か5日目だったかなぁ……会社のある場所に来て驚いたよ。
建物がある?!ってね。」(今澤さん)

何から手をつけたらいいか全くわからなかった

建物は残ったもののもちろん窓は無くなり、中はヘドロや砂の混じったものでいっぱい。
建物に船が突き刺さり、階段には作業用水槽がきれいに3段重なっていた。
それでも、建物は立派に残っていた。
お隣の鉄工所も一緒に残っていた。

2階の事務所の中もヘドロや瓦礫でいっぱいだった。
扉も持って行かれたが、どこからか流れてきた扉を拾ってきて取り付けた。
(その扉は、あつらえたみたいにぴったりとはまっていた。)

まるき水産の建物は防波堤の海側にある。ここは山田町の管轄ではなく、県の管轄。
そのため、様々な作業が後回しになり困難を強いられた。
突き刺さった船を撤去するのにも1か月以上、瓦礫の撤去もすべてが後回しだった。
どうにかこうにか形になったのは、5月も半ばを過ぎていた。

とにかく被害が大きすぎて、何から手をつけたらいいか全くわからなかった。

ボランティアの人たちに感謝

埼玉の親戚に話をすると、翌日には早速、何人もの支援の若者が連れて駆けつけてくれ、あっという間に片づけてその日のうちに帰って行った。
その後も様々なボランティアの人たちが、重機を持ってきてくれた。
見ず知らずの若い人たち、外国の人たち本当に多くの人たちが手弁当を持って駆けつけてくれた。
たくさんの人たちの手によって救われた。
「ボランティアの人たちは、一番嫌なものを置いていくのは申し訳ないって言ってトイレも使わないんだよ。」
ボランティアの人たちの姿をみて「あんなにしてもらっちゃぁ、自分たちがやらなきゃ!」と思えた。

不安の中で先が見えない

海岸には今、防波堤がない。地震もおさまってきているとはいえ、いまだ余震は続いている。
震災からは、3ヶ月が過ぎたが不安で、すぐに避難できるように今でも服を着たまま寝ている。

先日、山田町長が復興ビジョンを掲げた。
国道のかさ上げ、津波に強い街づくり。浸水地域への住宅の規制。
……どこに建てたらいいの?

水産業は、やはり海の近くでないとやっていけない。
しかし、今後この土地に建物を建てていいのか全く読めない状態。
行政が国頼みの予算組のため方向性が見えない。
この町に住むことへの希望のなさ、展望のなさによる不安でいっぱい。
この場所で多額の予算をかけていいのかわからない。
……と心が折れそうになる。

あきらめたくない

そうは言うものの、今までの商品開発など時間をかけてやってきた事業をあきらめたくない。助成金を利用して展開していきたいと動き出した。

3月11日その当日の午前中まで、営業して話をまとめ……
「いい返事をもらった1時間、2時間後に震災……流されてしまったよ。」

地元産の原料(My浜原料)を基本に商品開発をしてきたが、今は全く手に入らない状況。
しばらくは、My浜原料のこだわりを封印してやるしかない。
味で勝負!

光

包丁2本と白衣、帽子が流されずに残った。
「諦めるな!ってことなのかなぁ。」(今澤さん)
大切なレシピも出てきた。
今澤さんは長年すし職人をしてきたプロ。
材料さえあればすぐにでも作れる。
自分の舌と感覚で調理する。
レシピは、自分が作れなくなったときに社長に託すために作ったもの。

加工場の外壁をきれいにし、設備を設置し直し保健所の許可を取り直しすることから始めなければならない。
「大変なことが山積みだけど、今、地域の人たちと協同プロジェクトを立ち上げ助成金を申請するところ。前に向かって歩き出したところです。」

加工品部門を立ち上げ、新商品を今、これから世に送り出そうとしていた時の震災。このままでは終われません!

写真

◆有限会社まるき水産
(代表取締役 佐々木千鶴子さん、調理担当 今澤賢市さん )

三陸産ホタテ、カキなどの海産物の卸に加え、
これらの冷凍・冷蔵を含む一次加工と調理加工品の開発に力を注いでいる。

まるき水産(山田町) へのコメント

  1. 今澤様 より:

    がんばってくださいw

    • STAFF より:

      エールニッポンスタッフ 鎌田です!!

      これからも皆さんの声をどんどん伝えていきたいと思っております!
      コメントありがとうございました。

  2. 佐々木登美子様 より:

    がんばって体に気を付けてね